2005年8月21日 (日)

「直江 兼続」

「直江 兼続」は上杉家の名宰相です。藩主は二代目「上杉 景勝」で、春日山から会津若松へそして米沢へと移封となる中、藩主を助け執政として藩政を取仕切りました。そして米沢藩と町の基礎作りを行いました。 米沢・上杉・・・繋がりになりますが、時代は「上杉 鷹山」の170~200年位前の「関ヶ原の戦い」の前後になります。

越後国魚沼郡上田庄坂戸城に生まれた「樋口 兼続(幼名・与六)」はやがて景勝の近習となり謙信の教えをうける、景勝が二代目藩主となった後に名門「直江家」へ婿入りし与板城主「直江 兼続」となりました。この時から執政となり、藩政を取仕切るようになります。

「豊臣 秀吉」の命により、越後・上杉藩は会津120万石へ移封となり、兼続にも米沢30万石が与えられました。景勝と秀吉の和解に尽力したことなどから秀吉の信任を得た結果です。会津藩内の整備や築城を家康への謀叛と密告され、その際に申し開きを行ったのが「直江状」であり家康に対し堂々と反論したものです。それに激怒した家康は上杉討伐の出陣命令を出し会津へと向かいますが、石田三成の挙兵により上方へ引き返しやがて「関ヶ原の戦い」で勝利します。やがて景勝は石田方に加担したため30万石に減封され米沢に移り米沢藩主となります。

家臣の人数はそのままに120万石から30万石に減封となったため、藩財政は困窮を極め、兼続は倹約を旨とし新田開発や商工業振興などの殖産興業に力を入れるとともに城下町の整備も進めました。その結果、米沢は豊かな国となりました。後年に「上杉 鷹山」は藩財政再建に「直江 兼続」の手法を参考にしたとのことです。

「直江 兼続」はこうして上杉家の存続と米沢藩の基礎作りに尽力しましたが、1619年に60歳で生涯を閉じました。まさしく上杉家の名宰相と言えます。

この小説は上杉家を中心に書かれていますが、「関ヶ原の戦い」前後の時代背景もよく分かりますのでお奨めの一冊です。 「COCOLOG-BOOKS」でどうぞ!

(余談) 私は「直江 兼続」と聞いて「直江津」を連想しました、やはり「直江 兼続」が港を開いたので「直江津」となったと云われています。そして「津」は古くより「港」を意味するとのことです。 直江津・新津・両津・・・・・など!

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2005年8月20日 (土)

「上杉 鷹山」

上杉・・・は新潟県人にとってとても愛着のある名ではないかと思います。
越後・春日山の上杉藩は「上杉 謙信」を藩祖とし、二代藩主「上杉 景勝」の時会津120万石に移封となり、関ヶ原の合戦の後今度は米沢30万石に移封され米沢城主となりました。その後禄高は15万石に半減させられ、藩財政は逼迫しました。

そんな厳しい状況の中、九代藩主となったのが「上杉 治憲」(隠居して鷹山)で米沢藩中興の祖と云われています。 「上杉 治憲」は九州高鍋藩から上杉家の跡継ぎとして養子に迎えられ17歳で藩主となりましたが、逼迫した藩財政を立て直し民政を安定させることが急務となっていました。

大倹約令を断行し藩主自ら質素倹約に努め新領主への反感や老臣たちの抵抗を克服し、農村の復興や「米沢織」などの産業の開発を行い、民政の安定と経済の復興を図りました。
「なせばなる、なさねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。」・・・鷹山の和歌です!

私は米沢にはいろんな愛着があります。甥が米沢の大学にいた時、遊びに行きたかったのですが都合がつきませんでした。今度、会津経由で米沢へ行ってみたいと思っています。
バブル後いわゆる「鷹山ブーム」がありましたが、そんな経営改革とかは別にして、一般人にも参考になる小説だとおもいます。
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2005年8月16日 (火)

「峠」

著者 司馬 遼太郎氏のこの小説は、越後の蒼龍「河井 継之助」率いる「越後 長岡藩」が北越(戊辰)戦争に至った経緯と激しい戦闘の模様および敗戦から「河井 継之助」の死に至るまで記されている。

私が最初に読んだのは二十歳を過てからであったと思う。当時の上司に「君は小千谷の出身だよね。あの河井継之助の長岡の近くだよね・・・」と言われてであった。もちろん名前とかは知っていたが細かい所までは詳しく知らなかったので、郷土の歴史を勉強するような気持ちで読み始めました。
当時の感想は、地元へのひいきからか北越から会津へそして米沢へと拡大する戊辰戦争に対し、なぜ戦いしか手段がなかったのか・・・と言う憤りであった。「小千谷談判」が成功し話し合いによる解決(和解)ができたら維新の流れも変わり、犠牲も少なくできたと思う。

二回目に読んだのは、四十歳を過ぎてからである。「河井 継之助」の武士道精神、負けると分かっていても正義を通す生きざまに感心した。「米百俵の小林 虎三郎」と比較されがちであるが私はどちらも立派だと思っている。

小説には、小千谷と長岡の知っている地名がたくさんでている。(当然か?)小千谷談判が行われた「会見の間」がある小千谷船岡山の「慈眼寺」・激戦の地「榎峠」と「朝日山」の古戦場・信濃川対岸の三仏生・長岡の摂田屋と四ツ屋町・・・などである。「峠」の記念碑も小千谷にあります。

ファンサイトなどで、「峠」はどこの峠か・・・と言う書き込みなどがあります。著者の意図する所は「榎峠」と思っていますが、「小千谷談判」こそが河井継之助および長岡藩の運命の「峠」であったと思います。
奇遇な事に、戊辰戦争が終結する米沢藩との最後の戦いの地は、米沢街道にある「榎峠」です。

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