「直江 兼続」
「直江 兼続」は上杉家の名宰相です。藩主は二代目「上杉 景勝」で、春日山から会津若松へそして米沢へと移封となる中、藩主を助け執政として藩政を取仕切りました。そして米沢藩と町の基礎作りを行いました。 米沢・上杉・・・繋がりになりますが、時代は「上杉 鷹山」の170~200年位前の「関ヶ原の戦い」の前後になります。
越後国魚沼郡上田庄坂戸城に生まれた「樋口 兼続(幼名・与六)」はやがて景勝の近習となり謙信の教えをうける、景勝が二代目藩主となった後に名門「直江家」へ婿入りし与板城主「直江 兼続」となりました。この時から執政となり、藩政を取仕切るようになります。
「豊臣 秀吉」の命により、越後・上杉藩は会津120万石へ移封となり、兼続にも米沢30万石が与えられました。景勝と秀吉の和解に尽力したことなどから秀吉の信任を得た結果です。会津藩内の整備や築城を家康への謀叛と密告され、その際に申し開きを行ったのが「直江状」であり家康に対し堂々と反論したものです。それに激怒した家康は上杉討伐の出陣命令を出し会津へと向かいますが、石田三成の挙兵により上方へ引き返しやがて「関ヶ原の戦い」で勝利します。やがて景勝は石田方に加担したため30万石に減封され米沢に移り米沢藩主となります。
家臣の人数はそのままに120万石から30万石に減封となったため、藩財政は困窮を極め、兼続は倹約を旨とし新田開発や商工業振興などの殖産興業に力を入れるとともに城下町の整備も進めました。その結果、米沢は豊かな国となりました。後年に「上杉 鷹山」は藩財政再建に「直江 兼続」の手法を参考にしたとのことです。
「直江 兼続」はこうして上杉家の存続と米沢藩の基礎作りに尽力しましたが、1619年に60歳で生涯を閉じました。まさしく上杉家の名宰相と言えます。
この小説は上杉家を中心に書かれていますが、「関ヶ原の戦い」前後の時代背景もよく分かりますのでお奨めの一冊です。 「COCOLOG-BOOKS」でどうぞ!
(余談) 私は「直江 兼続」と聞いて「直江津」を連想しました、やはり「直江 兼続」が港を開いたので「直江津」となったと云われています。そして「津」は古くより「港」を意味するとのことです。 直江津・新津・両津・・・・・など!
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