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2005年10月 1日 (土)

「峠」の碑

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越の大橋のたもと(小千谷市高梨町)にある「峠」と「峠のこと」の文学碑・あずまや

     峠      司馬遼太郎
 主力は十日町を発し、六日市、妙見を経て榎峠の坂をのぼった。
坂の右手は、大地が信濃川に落ちこんでいる。
 川をへだてて対岸に三仏生村がある。そこには薩長の兵が駐屯している。
その兵が、山腹をのぼる長岡兵をめざとくみつけ、砲弾を飛ばしてきた。
この川越の砲弾が、その方面の戦争の第一弾になった。

「峠のこと」
 
 江戸封建制は、世界史の同じ制度のなかでも、きわだって精巧なものだった。17世紀から270年、日本史はこの制度のもとにあって、学問や芸術、商工業、農業を発展させた。この島国のひとびとすべての才能と心が、ここで養われたのである。
 その終末期に越後長岡藩に河井継之助があらわれた。かれは、藩を幕府とは離れた一個の文化的、経済的な独立組織と考え、ヨーロッパの公国のように仕立てかえようとした。継之助は独自の近代文化の発展と実行者という点で、きわどいほどに先覚的だった。
 ただこまったことは、時代のほうが急変してしまったのである。にわかに薩長が新時代の旗手になり、西日本の諸藩の力を背景に、長岡藩に屈従をせまった。
その勢力が小千谷まできた。
 かれらは、時代の勢いに乗っていた。長岡藩に対し、ひたすらな屈服を強い、かつ軍資金の献上を命じた。
継之助は小千谷本営に出むき、猶予を請うたが、容れられなかった。
といって屈従は倫理として出来ることではなかった。となれば、せっかく築いたあたらしい長岡藩の建設をみずからくだかざるをえなかったのである。かなわぬまでも、戦うという、美的表現をとらざるをえなかったのである。
かれは商人や工人の感覚で藩の近代化をはかったが、最後は武士であることのみに終始した。
 武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現した藩はない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。
 「峠」という表題は、そのことを、小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音になって鳴るのを聞いた。
平成5年11月     司馬遼太郎

23122441 23122844 榎峠と朝日山・妙見堰〈越の大橋〉

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道をはさみ「碑」の反対側に有る「五辺の水辺」案内図と沼の風景・地震で傾いたトイレ(使用禁止)
一部道路が通行止めであった為、復旧工事と沼の整備は進んでいなかった。
早く元の綺麗な景観に戻ってほしい!

(余談)
小説の地名で「十日町を発し、六日市、妙見を経て榎峠の坂をのぼった」
十日町と六日市はいずれも長岡市内の地名です。
十日町市・南魚沼市の六日町とは違います。

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コメント

Racexpさんへ
TB有難うございました。

投稿: おーちゃん | 2005年10月 7日 (金) 20時07分

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昨年(2004年)9月に小千谷市の慈眼寺を訪ねた。 小千谷市内も結構複雑な道でありあちらこちら遠回りの取材であった。 一遍でいくことができず途中船岡公園で一休みして昼食をとった。 木陰は涼しく快適であった。小千谷の市街地が丸見えの場所も! その後ようやくたどり着いた。たしかに大きな山門があった。 ここの本堂で河井継之助と岩村精一郎の会談が行われた。 河井は「中立の立場」を岩村に伝えたが岩村は聞き入れなかった。 河井は奥羽越列藩同盟に加わり新政府軍と対決する。 これが北越戊辰戦争である。 慈眼寺... [続きを読む]

受信: 2005年10月 7日 (金) 06時50分

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